佐々木 禎子さんって御存知ですか。

chiaozo2005-09-07

昨日、ある方とお会いしていて、ある、インディーズレーベルのロックバンド「GOD BREATH」の事を知りました。
このバンドは、広島発信で現在全国でツアーを組ほどの、一部の人達には、有名なバンドらしいのです。

普段、あまりロックとは縁のないラッテがこのバンドのバックグランドを聞いて、興味を引き、思わず、色々調べてしまいました。

このGOD BREATH のボーカルYuji Sasakiさんは、タイトルにある佐々木禎子さんの甥っ子、彼のお父さんが、禎子さんのお兄さんなのです。

この佐々木禎子さんという方をあなたは御存知ですか?ラッテは、恥ずかしい事に知りませんでした、というより、気付きませんでした・・・

原爆の子の像」、「サダコの折鶴」と聞いてしまえば、あ〜と思われる方もいらっしゃるでしょう!

そうなんです、広島に原爆が落とされ、爆心地から2キロ離れた場所で被爆した少女の事なんです。

彼女の事を少し説明させていただくと、
昭和18年、第2次世界大戦中に広島で理髪店を営む佐々木さん一家に生まれました。
「禎子」という名前は、両親が元気に育つようにと、店のお客さんの姓名判断の先生に付けてもらったそうです。

そして、昭和20年8月6日広島上空で、原子爆弾が炸裂し、佐々木さん一家も被爆してしまいました。

その後、戦争も終わり、ようやく広島も復興が進み、平和を取り戻した、昭和30年、彼女の体調に異変が起こり始めました・・・
そうです、彼女の体は白血病におかされてしまったんです。
まだ、12歳の少女です・・・

入院を始めて5ヶ月がたった頃、同じ病院に入院していた5歳の少女が白血病で亡くなりました。
禎子さんも「わたしも、あの様に死ぬんだろうか」とポツリともらしたそうです。
たかだか12歳の少女が、死への恐怖と戦っていたのです・・・


その後、名古屋の高校生達が、入院患者にお見舞いの千羽鶴を送って着たそうです。

その頃から、彼女の千羽鶴折が始まりました。
「鶴を千羽折れば、きっと、願いが叶う」という気持ち一心で彼女は、来る日も来る日も、鶴を折り続けました。

その間にも彼女の病魔は容赦なく彼女を襲い、苦しめました。
しかし、彼女は、「痛い」「辛い」と口にする事はなかったそうです。
だんだんに、高熱が続き、頭痛に悩まされ、寝れない日々が続いても、彼女は、ただただ、鶴を折り続けました。

しかし、その年の10月25日彼女の12年の本当に短い人生は幕を閉じてしまいました。


その後、彼女の友達が「禎子のために自分達も何かをしたい、しかし、何もして上げられなかった」という悔しさから、「禎子ちゃんのお墓を立てられないだろうか、みんなが毎日お参りの出来るように」と募金活動を始めました、最初は、本当に出来るのか、不安でしたが、みんなの、禎子ちゃんのために何かがしたい」「原爆なんかなくしてしまいたい」との気持ちから、その輪がどんどん広まり、日本中の子供達が協力して、とうとう、2年後に、「平和記念公園原爆の子の像」が完成しました。

これが、彼女のお話しのほんの一部です。


そして、この後、彼女のお兄様が、この話しを全国に広め、戦争の悲惨さ、平和の大切さ、人の命の大切さ、2度と原爆を使う事のないようにと運動を続けてこられたそうです。

そして、その息子さんが、今度は、音楽という物で、世界に訴えて活動しているのです。

この話しを知った後、彼らのCDの10曲目、「INORI」と言う曲を聴いて、あらためて感銘を覚えました。

今年は、原爆投下から60年目の節目の年です、また、禎子が亡くなってから、50年目の年になります。テレビでも散々、この話題でドラマなどが放映されました。
ラッテも何気にドラマを見ていましたが、今回、あらためて考えさせられました。

本当の平和とは何だろう、原爆を2度と使わせないという事をあらためて考えさせられる1日でした。
今日は、長くなってしまいましたが、あなたも、一度、考えて見てください。

そして、もしも機会があれば、彼ら「GOD BREATH」の曲を聴いて見てください。

LOVE&PEACE